ラウラ・バッシ、自宅の居間で講義した女性教授
1732年、二十歳の彼女はボローニャ中が見守るなかで論題を弁論しました。大学は教授の肩書きを与えながら、教室には入れてくれません。そこで彼女は自宅に実験室をつくったのです。
マルゲリータ公園(Giardini Margherita)の近くに、ラウラ・バッシ・ヴェラッティ通り(via Laura Bassi Veratti)という道があります。毎日ここを通るボローニャっ子の多くは、標識の女性が誰なのか気にしたこともありません。そこで私たちがご紹介しましょう。18世紀に、西洋最古の大学を説得して教壇に立った女性です。まあ、だいたいは。
勉強しすぎた少女
ラウラ・バッシは1711年、ボローニャで弁護士ジュゼッペ・バッシの一人娘として生まれました。最初の先生は、司祭をしていた親戚のロレンツォ・ステガーニ。やがて家庭医のガエターノ・タッコーニが教育を引き継ぎます。大学で教えていたタッコーニは、目の前の生徒が並外れていることにすぐ気づきました。
1731年、タッコーニは一種の非公開の試験を用意します。町の学者たちが彼女に質問を浴びせ、そこには枢機卿で大司教のプロスペロ・ランベルティーニ、のちの教皇ベネディクトゥス14世もいました。感心したランベルティーニは、このときから彼女の大きな後ろ盾となります。
1732年、奇跡の年
このあとの出来事を、ボローニャ大学は自らの「奇跡の年」と呼んでいます。3月、ラウラは科学アカデミーに入会し、初の女性会員となりました。4月17日には、パラッツォ・プッブリコ(現在の市庁舎パラッツォ・ダックルシオ)で大学の教授たちを相手に、哲学の論題49項目を公開で弁論します。数週間後の5月、哲学の学位を取得。まだ二十歳でした。
それだけではありません。6月には教える資格を得るためにさらに論題を弁論し、秋には自然哲学の職に就き、12月には最初の講義を行いました。
教授だけれど、そこそこ
ただし、そこには落とし穴がありました。ラウラが教えられるのは、厳かな公開講義などの特別な機会だけ。男子学生ばかりの普段の授業には、相変わらず入れてもらえません。耳を傾けるためというより、見せるための教授だったのです。
1738年、彼女は医師で同じく物理学の教授だったジュゼッペ・ヴェラッティと結婚します。子どもは8人、そのうち5人が成人しました。その間にラウラは授業時間を増やしてほしいと願い出ますが、答えは「ノー」でした。
居間の実験室
学生が大学で彼女の授業を受けられないなら、家に来てもらえばいい。1749年から、バッシとヴェラッティの夫妻は自宅に実験室を構え、実験物理学の定期講座を開きます。ラウラは筋金入りのニュートン派で、その授業は言葉より実験を重んじる新しい物理学をボローニャにもたらしました。夫とともに、電気を医療に役立てる研究にも取り組んでいます。
居間は小さな科学の拠点になりました。生徒の中には若い親戚のラッザロ・スパランツァーニがいて、のちにその世紀を代表する生物学者の一人になります。アレッサンドロ・ヴォルタも訪れました。ヴォルテールは賛辞を込めた手紙を送っています。感心した市の元老院は彼女の報酬を何度も引き上げました。本当に教室に入れることだけは避けながら。
教皇となった旧友ランベルティーニも一役買います。1745年、アカデミーの中に選り抜きの学者グループ「ベネデッティーニ」(Benedettini)をつくり、ラウラもその一員になりました。ただし定員外のメンバーとして、投票権はなし。男性の同僚が席を失わずにすむように、というわけです。世の中は変わりつつありましたが、ゆっくりと。
ついに講座を手に
報われたのは遅く、1776年のことでした。60歳を過ぎていたラウラ・バッシは、ボローニャの科学研究所(Istituto delle Scienze)で実験物理学の講座を任されます。大学の物理学の講座を担当した世界で最初の女性です。公式の助手は誰かって? 夫でした。家の食卓ではどんな会話が交わされていたのか、想像するだけで楽しくなります。
けれども、その時間は長く続きませんでした。1778年2月20日、ボローニャで死去。コルプス・ドミニ教会(Corpus Domini)に葬られています。カエルの実験で「動物電気」を唱えたルイージ・ガルヴァーニも、同じ教会に眠っています。
彼女を覚えておきたい理由
ラウラ・バッシは、ひとりで時代のルールを変えたわけではありません。辛抱強くルールを曲げていき、自分の居場所をつくらせたのです。いまボローニャには彼女の名を冠した通りといくつかの学校があり、2021年には49の論題を弁論した記念日の4月17日に、Googleがトップページのロゴ(Doodle)で彼女を称えました。祝日にしか講義させてもらえなかった人にしては、悪くない結末です。
彼女の足跡をたどるなら。出発点はマッジョーレ広場。ラウラが論題を弁論したのは、ここに建つパラッツォ・ダックルシオでした。そこからマルゲリータ公園まで歩いて、彼女の名前の通りにあいさつを。


